カテゴリー「 人として生きたい!」の記事

責任と修練の毎日

 
「 お兄さん、此処では吸うなよ! 」
「 ネエさん、前向いて歩けよ! 」 
 
Et189_l

性格が悪いのだろうか、大人になりきれないのか、
通勤や仕事で街を歩く時、数回は注意する毎日だ。
 
不思議な事に昨日は一度も無かった。
でも、今日は日常が戻ってきた。
 
社会人の責任であり、修練の場と信じて毎日が続く。

 
 
   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

入国管理と収容施設について

【 入出国と経済、文化の関係 】

古代より、日本にやって来る渡来人、日本から渡る渡航人の役割は大きい。

彼らの存在によって 仏教が伝わり、漢字や法律、文化や芸術が日本に広まり、海外へ日本独自の工芸品などの輸出へと繋がったのだから当然だ。

しかも、国や権力者の政策として行なわれた例を除けば、お菓子や民芸品などの普及をみても、商人などの一般人の果たしてきた功績は大きい様に思えるし、交通機関の普及した現在であれば尚更重要な役割を果たしていると言えるだろう。

つまり、海外との人の行き来があってこそ、経済や文化、芸術、スポーツが発展するのは間違い無いのだから、積極的に振興すべきだろう。



【 入国管理局と収容所 】


しかし、人の行き来を振興すればするほどに、入国を管理している法務省、入国管理局の果たす役割は重要になり、業務量が増えるのは間違いない。

その業務の中で、入国した際の審査業務、或いは 入国した後で在留資格違反を犯した人に対して 「 退去強制 」 という処置がある。
これは、「 出国命令 」 処置とは異なり、一定期間の間、専用の収容所に収容され、詳細な審査や申し立てを経てから出国または在留の判断がされるのが一般的な様だ。

この収容期間は通常数か月に及ぶ事も珍しくなく、全国に 3か所しかない収容所に、国籍も言葉、宗教、摂食可能な食材も異なる人達が一様に収容される結果となり、個々の収容者にとってストレスの小さくない環境となる。

※ 2014年度、収容所別年間収容人数は下記の通り

2014

 
【 マスコミ報道、収容所での死亡事故 】

 
TVなどのマスコミ報道やブログやSNSサイトなどで、この入国管理局の収容所での待遇環境の悪さにより、収容されていた人が健康を害したり死亡したというニュースが取り上げられている。
 
その中で、重篤な事案などに対して幾つかの機関、団体が情報開示請求しているが、その開示資料の大半は黒く塗りつぶされてから公開されており、それによって更に収容所の待遇に対して不信感も増しているようだ。

実は、この点に興味を抱いて、前述の様に政府広報資料などを収集し、人権活動を熱心に行なっている方々のサイトページ等をつぶさに確認した次第だが、今は判断は出来ていない状況だ。




【 分かった事と今後について 】

調べていた幾つか分かった事実もあるので、ここに述べておく。

〇 「 外国人登録制 」 と  「 在留カード制 」
・・ 以前は、市町村などで行なう外国人登録制度だったが、2012年7月以降、日本国民と同様に 住民基本台帳で管理して 「 在留カード 」 の発行により管理する制度へと変更になり、適切に申請した人とそうでない人の判別管理を容易にするメリットあり。

〇 収容される人数(人員)の減少
・・ 先に挙げた資料に記載の通り、2014年度の 全収容施設での総収容述べ人数は 約 12 万人で、決して少なくない人数だが、2006年の 同資料では 約 32万人となっており、「 在留カード 」 制が有効に働いたのか、大幅に減少しているのがわかる。

〇 永住許可人数(人員)
・・ 永住許可とは、一定期間の在留を認める在留カードとは異なり、期間の限定無く 居住する事を認める制度で、芸能やスポーツ、研究機関に勤める外国籍に人達の多くが申請して国が認めているものだが、全人口の 0.0.3% に留まっている。
・・ 最初に述べた通り、経済や文化、芸術などは、様々な 文化や知識を持った人達との交流によって発展がもたらされてきた事は明らかで、更に 人口減少の先進国であれば、この現実を正確に捉えておく事も必要だろう。


※ 2014年度、永住許可人員資料は下記の通り、
2014_1
 
〇 収容者の内情と国籍
・・ 収容所と聞けば、一般の人であれば、「 刑務所みたいな所? 」 と想像し、収容される人も 悪意を持って入国した人だと考えたとしても自然だろう。 しかし、入国管理局の収容所は 窃盗や傷害、殺人などの行為を行なった人の施設と同じだ。 後者が他人に明らかな危害や損失を与えているのと異なり、前者:入国管理局によって収容された人の大半は他人への危害などを一切与えていない人だと言える。
・・ 入国管理局に収容されている人のイメージは人により様々だと思うが、日本と友好関係が深く、領事館能力の強い先進国の人々も多く収容されている。

※ 2014年度、国籍別、収容令書発布記録資料は下記の通り

2014_1_2

以上、経済と文化、芸術・学術、スポーツ などの面も踏まえて、偏った先入観無く、海外の方々との直接的な交流について考えを深める一助になれば幸いです。

今後も、関連する資料を収集し、発表する機会を設けます。

 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

“東京目線” で処理される震災対応

   
大震災の数日後、ようやく電気が復旧した部屋の中、
真冬に暖房も無く、目一杯に服を重ね着して、久し振りに観たTV。
そして、そのTV番組で交わされていた言葉に僕は寒気を覚えた。

「 もし、同じ地震が東京で起きたら ・ ・ ・ 」という言葉に。

1995年 1月
未だ、被災した街の中では、押し潰れたビルの中の多くの亡骸さえ救い出せず、無事だった人も水や食べ物に日々困っている最中なのに ・・・ 、

「 東京はそんなに大切か!? 」と
 

【 “東京目線”による報道の罪 】

それは、NHKの特別番組だった。
知識人や専門家が数名集まって意見を出し合う討論形式のもので、始まりこそ阪神淡路大震災の現状の報告であったが、やがては、同じ規模の地震が東京で発生する可能性や、万が一発生した場合の話題へと移っていった。

「 どんでもない話だ! 」

「 東京が行政関連機関の集積地である事は理解しているし、経済や文化の中心地だと分かっているけれど、それがどうした? 」
「 被災をして亡くなった人が居て、その方の家族の人々が悲嘆に暮れ、今なお数多くの方々が明日の生活さえ見えない不安な状況に直面しているというのに。 」

「 そんなに、東京だけが大切なのか? 」
「 人の命や生活は、暮らしている場所が異なっても、全てが等しく大切なもの 」
「 そして、国家行政は国民の一人ひとりの守り、マスコミは全国民を対象にする責任がある筈だ 」

日本を代表するマスコミが、その時点で最も必要な事柄を客観的に捉えず、突然の災害に困惑し、家族や友人を亡くした悲嘆にくれ、日々の生活に困窮しているというのに、“東京”という 一地方だけに通じる話題へとすり替える事はあってはならない事だ。
   

【 繰り返される “東京目線”報道 】

“東京目線”報道は、災害時だけではなく、日常的に繰り返されている。

NHKでは、様々な製作番組の中で、広さを表す尺度に「東京ドーム」や「山の手線」、そして「東京23区」などを平気で使っている。
それらの尺度は 東京または関東地区に居住か勤務している人々に通じる表現であり、日本全国を対象に番組の製作報道する責任ある立場、ましてNHKであればやってはならない事である。

それなのに、大震災という非常事態であっても、“東京目線”は繰り返される。

2011年3月、東北地方太平洋沖地震では、人的被害が僅かな関東地方の被害状況だけを先行して報道を繰り返し、東京都内での飲料水中の放射性物質濃度の軽微な変化に報道の熱を上げたが、それは単に取材報道の容易さからと言うより、より深刻な人的被害を受け、なお健康被害が懸念される放射線濃度の環境に置かれていた人々の心情を無視した行為だ。

今年11月8日、台風30号で甚大な被害を受けたフィリピンの報道でも同様だ。
11月18日放送のNHK番組「クローズアップ現代」では、番組前半では被災状況を詳細に報道を行なったが、やがて地球温暖化の進行で日本も同様な台風被害を受ける可能性へと話題が移り、番組後半はCGシミュレーショんを交えて「東京が同様な台風に襲われると・・」と、“東京目線”による東京地方の為の報道へとすり替わっていった。

「 なぜ、東京なのだ? 」

日本に住む多くのフィリピン出身の方々の心情を考えると、一層いたたまれない。
    

【 “東京目線”で進む行政 】

“東京目線”で処理しているのはマスコミだけではない。行政も同様だ。

「帰宅困難者対策の為の法案」や「電気事業法改正案」が進められているのは、2011年3月の震災以降、基盤の脆弱な東京地区で多くの帰宅が困難な方が発生し、計画停電により様々な生活上の不便さを受けたのが東京を中心とする地区だったから。

仮に、1995年の震災の時の様に、東京から遠く離れた地区での大災害で、東京電力が一切の被害を受けずに電力送信を行なっていたなら、決して今回の様に法案が進んでいなかった可能性が高い事は無視してはならない。

現在もなお、防潮堤の建設、高台移住、産業構成と就業問題、そして除染や廃棄物処理場など、実際に大きな課題に直面している地区や人々の為の行政の行為と云えば、復興庁の設置や特別税の設定はあったものの、効果的に対処が進んでいる様子は無いし、それを中央行政府が検証して発表する様子もない。

つまり、東京に関わる事柄は神経質に取り扱うが、東京という地域から離れた遠くの地域の事になると表面的な対応でお茶を濁していると言える。

別な言い方をすれば、東京近辺に住む人々の声には敏感に反応して、そうではない地域の人々の声には鈍感であるのだ。
これは、沖縄問題と表現されている事案の原因であり、隣国の中国や韓国などとの領土紛争の底流に流れる要因にも繋がっていると言える。
 
 
   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人との関わりを避ける社会との関わり

( これは、お盆前、梅田の街中で遭遇した事です )

その男性は、それなりの努力をしていたが、それは明らかに間違いだった。

大阪のビジネス街・梅田の交差点での出来事でした。

 

交差点の向こうには車が連なっていたのに、信号の変わり目に交差点に車で進入して来た彼。

信号が赤に変わってからも、少しでも前の車両に近づこうと、彼は少しずつ前進させたが、止まった所は横断歩道のド真ん中。

彼の車(国産の新車)は、最後の努力によって、完全に横断歩道を塞いでしまった。

そして、横断歩道の信号が変わり、歩行者が渡り始め、その歩行者の中に僕が居たのです。



【 彼は、若いサラリーマン(風) 】

夕方前の帰社の途中だろうか 。

歳の頃は、20代後半。 服装からして、サラリーマン。

髪型も整っていて、髭も綺麗に剃っていて、性格は温厚(風))か?

「 コン  コン 」、歩道の真ん中を歩いてきた僕は、彼の運転席側の窓をノックした。

すると、車内で彼の右手がとっさに前に伸び、窓を下げる! と思った ・ ・ ・が、ドアをロックした。

仕方なく、僕は言う。
「 こんな所に止めたら迷惑だ! 」と、車内に届く様に大きめの声で。


すると、頭は進行方向を向いたまま動かさず、右手を耳の横に広げて寄せて、
「 え? 何でしょうか、 よく聞こえませんけど ・・ 」というポーズを返してきた。

単に道路交通法を破っている現行犯である以外に、歩行者にとっては迷惑な行為をしていながら、その行為と迷惑に対して真摯に向い合おうとしない人の態度です。

僕自身は、同様なケースに遭遇した場合、その行為の迷惑度や運転者の態度、そしてリスクを同時に判断しつつ、出来る限り注意する様にしています。 が 、今回の様な例は初めてでした。

「 最近は、こうした若者が増えているのか! 」と、その瞬間には少し暗い気持ちに陥ってしまいましたが、時間が経ち思い返して、決してそうではない事に気付いたのです。

【 人との関わりを避ける人たち 】

他の人の迷惑を掛けても、「 ごめんなさい 」の一言も言わない人は多くいるのです。

明らかに、相手の人に迷惑を掛けた場面でも、相手の人を一切見ようとしないで立ち去ろうとする人達は少なくありません。

それも、決して平成生まれだけに限った話ではありません。年輩の昭和生まれであっても、自身が迷惑を掛けた事に対しても、一切関わろうとしない人は少なくないのです。

横断歩道を塞ぎ、ドアロックしたまま “聴くフリ”をした彼・特有の現象ではないのです。

ただ、人との関わり方の対処の仕方が変化してきているだけなのでしょう。

以前でしたら、特に男性に対してですが、他の人に注意する行為自体は、時には喧嘩沙汰にまで発展する事を覚悟しておくのが当たり前でした、

しかし、概ね30歳未満の男性の場合には、“ 無視する ”か“ 逃げる ”が増えてきている事を実際に体験しています。

注意しようとすると、「 変な人~~! 」等と大声を出しながら、梅田の地下街を走って逃げる背広姿のサラリーマンに出会ったのも1度だけではありません。

逆に、60歳以上の男性の場合には、注意されると“逆切れ”して、大声で怒鳴る場面にも多く出会ってきました。

どちらにしても、他の人に迷惑を掛けて、それに対して詫びもせず、注意に対して素直に詫びの言葉も出せない人々によって育てられてきた世代ですから、自身が迷惑を掛けた相手に対して行なうべき行為が分からず、無視したり逃げても不思議ではありません。

At075_l

【 僕は幸せです 】

周りを見回しても、他の人に席を譲る人は居ても、他の人の迷惑行為に対して注意を行なっている人は殆ど見かけません。

相手に感謝される行為は行なえても、相手から嫌われる行為は避けたいのが人情なのでしょう。

その為、目の前で“いじめ”があっても注意が出来ず、見て見ぬフリをする人達が育ち、自然と日常の中での面倒事からは目を逸らして生きるのが当たり前の様になっている人達が増えているのでしょう。

けれども、日常の中で、迷惑な事に対して注意をし続ける自分自身は幸せだと感じています。

というのも、毎日が練習であり未来への備えだからです。


人は誰でもが、目の前で起きた事に対して、とっさに適切な言動が取れる訳ではありません。大切な場面で、適切なタイミングで、より効果的な言葉や行動が行なわる訳ではないのです。

そして、その行為の有無が自身の未来に影響する事であれば、その場で適切な対応が行なえる事は大切な事です。

それを克服するには、日頃から身の廻りで発生している“迷惑な事”に対して、適切な対応を行なう“練習”が欠かせないのです。

いくら、見て見ぬフリをして避けて、その“うっぷん”をブログ(日記)などで晴らしても無駄な事です。

しかも、人は誰でもが歳をとるものです。

現状を改善する努力を行なわず、現状と向き合う能力を鍛えず、現状から予測される未来にさえ危惧を抱かず、歳をとって体力・気力が弱ってきてから、「今の若い者は ・・ 」とか 「 今の時代は ・・・ 」と嘆くのは、間違っている以上に嘆かわしい行為にさえ感じられるのです。

自身の能力を鍛え、未来への対処を行なう行為が、他の人から奇異に映ろうとも、「背中から刺されるよ」と言われようと、日一日を生きている実感に包まれています。

勿論、嫌な想い出は沢山ありますが 、そういう道を歩むからこそ、素敵な人々(男女を問わず)と出会える機会があるのだと信じています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

選挙よりも大切なこと


【 人の暮らしに影響を与えること 】
 
選挙は、選挙民(国民や市民など)を代表して行政を司るメンバーを投票というシステムなどで選ぶもので、選ばれたメンバーの顔触れによって行政の進む方向が左右されるので大切なことだ。
 
しかし、選挙や行政よりも日常の暮らしを左右してしまうことは数多くある。
労働環境や収入、健康管理や家族問題など、人の暮らしに大きく影響を与える事全てを行政の責任にする事は出来ない。
 
例え職場内のイジメがあったり、知らずに公害汚染を受けていたとしても、基本的には個人が責任を持って対処行動を起こすべき事柄で、その全てを行政の責任であるかの様に扱うのは間違っている。
   
 
【 社会の中の個人として 】
 
人間は、他の動物以上に社会の中で生きる事に依存している動物だ。
いや、社会を発展させる事によって、安定した食料体制や知識の享受、身体的な安全や文化面の充実を図り、それらを歴史の中で積み重ねてきたから現在がある。

だから、個人の生活を充実させて夢や希望を叶えたいと願い、昨日よりも幸福な明日を望むならば、個人を取り巻く社会に対してどう接するかがとても大切になる。

つまり、家族から身も知らぬ他人に対してまで、身の回りの人とどういう接し方をするかによって、その個人の人間生活の充実度が左右されるのだ。
    

【 行政とは 】
   
多数決が民主主義と誤解されたこの社会の中では、それによって選ばれるメンバー達は選挙民の平均的な意識や行動様式を代表したものになる。

尖閣諸島で衝突行動を起こした隣国の人に対して行なった“行政的処置”について非難する人は少なくないが、所詮は選挙民の平均的な意思や行動様式を代表したものだ。
   
日頃から隣に住む人とのコミュニケーションを積極的には取ろうとせず、何か隣人関係で解決すべき問題があっても直接的に適切な行動を起こそうとせず、「見て見ぬフリ」をしたり行政など第三者機関に委託するような選挙民が大半である現われだ。
 
適切に身の回りの人と関係を築き、必要な時には冷静で毅然とした態度で意見できる選挙民が大半であれば、あの様な行政処置はあり得ない。
 
つまり、行政が選挙民の表れである以上、行政を良くしたいと願うならば、個人として身の回りのあらゆる人達との関わり方を積極的に行なうべきだ。
 
 
【 選挙よりも大切なこと 】
 
身の周りの人との関わり方を積極的に行なうことは、積極的に政治についての会話をすることではないし、政治的集会やデモ行進への勧誘を行なうことでもない。

身の周りの人から迷惑を受けたり受ける恐れがある場合には、その人に対して毅然とした態度で「迷惑なので止めて」と伝えるだけの事だ。
更に、予防的な措置として、その様な行為を他の人に対して行なっている人を見かけた場合にも、同様に毅然とした態度で意見を伝える事も大切だ。

そういう事柄や行動を起こせる場面は意外に多くある。
例えば、道路やショッピングセンターなどを歩く際、顔を上げず前も見ずに歩く人と出くわした場合、大半の人は自らその人を避けて歩くが、可能な範囲、リスクを負わない範囲で注意することが大切だ。

周囲の人に注意や関心を払わない人の行為こそが、社会に住む個人の生活を脅かす元凶であり、意識ある人は決して「見て見ぬフリ」という無関心行動を装ってはいけないのだ。
 
      

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オリンピック、 柔道とナショナリズム


ロンドンオリンピックは、開幕以前から楽しみにしていた。
だから、開幕式以前から始まった 女子サッカーから毎日・毎晩の様にTVで観戦している。

Da091_l やはり、スポーツの祭典とも称される様に、様々な競技が次々からTVで中継報道されるのを観るだけで、自然と心が躍ってくる。
そして、参加している人達の参加に至るまでの努力や研鑚の日々がある事を偲べば、どのスポーツ競技であっても、どんな成績であっても、一人ひとりの方が愛おしくさえ感じられます。

でも、オリンピックを利用して何等かの意図が見える場合もあり、心寂しく感じられる場面も少なからずあります。



【 柔道は国技なのか? 】

柔道に関して、日本の統括機関や世界の統括機関の声明文をチェックしていないので定かではないけど、どうも 柔道は日本の国技として捉えている方が多いようだ。

一個人が愛着を感じてそう捉えているなら問題は少ないが、日本の連盟自体が世界各地に広まりグローバルスポーツに育っている柔道を、今なお日本の国技として認めさせようとして躍起になっている印象を強く受けてしまうのが戴けない。

ずっと以前、オランダのヘーシング選手によって重量級のタイトルを奪われてから、一層遮二無二になって柔道を日本の国技として世界に認めさせようとして、変な感情が渦巻いているように見えてしまう。
例えば、青い柔道着が国際的な試合形式の場で導入されようとした際、日本の連盟が大いに反対をしたと伝え聞いている。
また、判定の仕方や競技ルールについても、日本がイニシャティブを持ってコントロールしようとしているように見受けられる。

その結果として、柔道の選手として参加している方に変なプレッシャーを与えているように思える。


【 銅メダルはダメなのか、5位も立派なのでは? 】

柔道競技が始まって、今日(7/31)までに 三階級のスケジュールが終了したが、銅メダルや銀メダルという立派な賞をもらった日本の選手達が異口同音で「 金だけを目標にしていたのに・・ 」という会見発表を行なう姿は不思議というより不気味である。

まして、以前よりも敗者復活戦への道が狭くなった中で、5位という立派な成績を収めた男性選手が泣きながら詫びの言葉を発する会見の様子を見れば、その金メダルを獲る事への異常なプレッシャーの強さを窺わせてくれる。

そして、その様子を当たり前のように報道する報道機関の姿勢にも疑問を感じる。
何故、柔道だけが金メダル獲得を宿命であるかのようなプレッシャーを受け、そのプレッシャーの存在に疑問を持たず何らのコメントやフォローもせずに報道するならば、その宿命プレッシャーを是認している事に他ならないからだ。

多くの競技がオリンピックでは開催されているが、メダルを獲得できる事は多いに称賛できる事だし、仮に総合5位であっても同様だろう。



【 柔道は日本国技と考えるべきなのか? 】

様々なスポーツ競技には、様々な食物がそうであるように、それが生まれ育った地方や国がある。
Cx004_l 例えばサッカーは英国で生まれた競技・国技だが、今や全世界で競技人口が最多とも言われるまでになり、強豪国としてスペインやポルトガル、イタリヤやブラジル、アルゼンチンなどがひしめき、決して英国のチームが最強である事を宿命とはされていない。

英国で生まれ、全世界へと広まる(広める)過程に於いて、「国技発祥国=最強」という呪縛をあえて解いたからこそ、国際サッカー連盟( 略称:FIFA、本部はスイス.チューリッヒ )を通じて全世界で統一されたルールの元に多くの人々に親しまれているのだろう。
その上、英国の競技連盟は国際サッカー連盟の中での意思決定に大きな影響力を残し、様々なルール改正などについては大きな発言力を有している。

一方、国際柔道連盟と全日本柔道連盟の関係は全く異なる。
国際柔道連盟は、母体となる欧州柔道連盟が1948年にロンドンで生まれ、その後、1951年に国際柔道連盟へと変わ、その本部はスイスのローザンヌに設置されているなど、日本抜きで国際的組織は体系作られているのだ。

そういう日本と国際柔道連盟との関係は、1952年に日本の加盟が承認されて以来始まり、同年から講道館柔道の創始者:嘉納治五郎氏の次男である嘉納履正氏が国際柔道連盟の会長に就いて国際的な普及に尽力されたとは聞いている。

しかし、英国のサッカーと同様に、発祥国としての誇りは持ちつつ、全世界で愛されるスポーツとして広まる事にもっと大きな関心を払うべきなのに、国技としての意識が日本国内での競技人口に影響を与えてはいないだろうか。


【 もっと、日本国内でも愛される競技になって欲しいが ・・ 】

最初にも書いた通り、どんなスポーツでも観戦は好きだし、オリンピックであれば尚更だ。
きっと、これは僕だけに限らず、多くの人々に共通する気持ちだろう。

しかし、そんな風に注目している場で、「 金メダルが獲れずに申し訳無い 」と会見し、精一杯に力を発揮した後の解放感からの笑顔も無く、報道する立場の人達の公正で的確なフォローも無い姿を見せつけられて、誰が柔道選手になってオリンピックへ出たい!と思うだろうか。

例えメダルさえ獲れなかったとしても、参加した選手達が会見の場では笑顔で発言し、報道する立場の人達はその選手の正当な評価でフォローする姿こそ、次世代の夢を掻き立てる材料になると思う。

重量揚げ競技、女子の最軽量クラス(48 ㎏)で銀メダルの賞を受けた三宅選手の例は、過熱していない適切な報道の例の一つだ。
彼女は、今年で3回目のオリンピック参加となるが、過去のオリンピックでの成績は9位、6位だったが、TV報道ではその経歴を述べた上で正当な評価を与えていたし、彼女自身が最後の試技に失敗して競技を終了したその場で笑顔で観客に手を振って感謝の挨拶をしていた。

きっと、そんな姿をTVで観た人達の中には「 あっ! やってみたい! 」と思う人も居るだろうが、金メダルが宿命の様な雰囲気や報道につぶされて笑顔無く会見する姿を見れば、大半の人はやってみたいとは思わないだろう。
例え、文部科学省が中学校指導要綱で柔道を含む武道の必修化を決めたとしても・・・だ。


【 国民の一人としての責任 】

僕には変な癖がある!と自覚している。
それは、国民の一人として、人類の一人としての責任を考え、時に妄想してしまう癖だ。
目にした現象や事象に対して、単に評価や指摘をするだけでなく、自分自身の責任についても考えてしまうのだ。

今回の柔道の例では、TV会見報道を観た際に違和感を感じるまで、日本の柔道選手が受けている奇妙なプレッシャーの存在に気付かなかった。
そして、そのプレッシャーが彼らを取り巻く関連団体や報道機関から受けたもので、僕個人から直接与えたものではなかったとしても、プレッシャーの存在に気付かなかった事は“共犯者”の一人だったと考える。

だから、柔道を必要以上に国技だと捉えたくないし、メダルを獲れなくても立派だと発言をしていきたい。

でも、少し悩みもある。
それは国籍の問題だ。

オリンピックの場では、生誕国とは異なる国の国籍を取得し、生誕した国では叶えられなかったであろうオリンピック参加の道を切り拓いている人は多く居る。
芸人とした名を馳せている日本の人が、カンボジアの代表としてマラソン競技に参加しようとした例は氷山の一角で、ケニアやエチオピア生まれの人がヨーロッパ各国の国籍を取得して代表選手となったり、卓球王国として有名な中国から別の国の代表として参加など、枚挙に暇が無い。

意外に思うかも知れないが、日本国籍を取得して(取得させられて)オリンピック代表選手として活躍して表彰された例も数多くあるのだ。

では、外観からも明らかに“ 日本人らしくない ”人を代表選手として、他の選手と差別する事なく応援できるだろうか?と、実は少しだけ悩んでいる。
でも、代表となった人を心の中から応援できるように努力して変わっていきたいと考えているのは確かだ。

Cx197_l オリンピックがナショナリズムを盛り立てて、国威発揚の場として利用している国や地域・民族は過去から現在に至るまで数多くあるが、ナショナリズムへの偏った煽りが、戦争や紛争などを正当化させ、人が人を殺す事に疑問を持たなくなった歴史と、今現在そうなっている現実社会がある事を忘れてはならない。

だから、TV観戦に熱中する以外に、「 オリンピック開催がユーロ各国に与える経済的・政治的な影響は? 」という、現実社会でもっと大きな影響を与えている事柄にも眼を向けなくては! ・・・ と、考えてみる事にしようか ♪?
 
    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自殺について考えること

「 自殺 」について、今日は思っている事を書いてみたい。

誤解を恐れずに言うならば、僕は “自殺容認主義者” だ。
より正確に表現すれば、「自殺は誰もが選択する事が出来る生き方の一つ」だと思う。

“生き方” と表現したのは、自分自身の意思では何も表現できず、接続された機器の働きによって、ただ病床で生き永らえさせる“ 生き方 ”はしたくないからだ。

脳死として判断される状態なら、直ぐに延命処置を中止して、移植可能な臓器をより健康な内に利用してもらう方を、自分自身の“生き方” として選ぶ。

仮に、そこに至る前の段階であっても、医療技術による延命処置を選択する段階には、それを選択するか否かは自分自身の権利として確保しておきたい。
そして、自分自身を自分自身の意思で制御できず、意思表現の自由さえ無くす前の段階には、“自殺をする権利” を自由意思として確保すべきだと考えている。

  *    *    *    *

しかし、守らねばならない事がある。
他の人の “生き方” に影響を与える事を最小限に留めなくてはならない。

当然だが、他の人を巻き添えにして自殺してはならないし、全く無関係な他人に亡骸の後始末をさせてもならない。

だから、列車への飛び込みはダメだし、高い所からの飛び降りもダメ。
まして、レンタカーを使っての練炭自殺もダメである。

例え、“自殺” であっても、最後まで “ 人 ” として他の人に迷惑を不要に掛けてはならないからだ。

  *    *    *    *

話は変わるが ・ ・ ・

中学生が自殺をしたニュースは 社会的な反響を買いやすいようだ。
日本人の年間自殺者数の 1 % にも満たない事例なのにだ。
本来は、他の 99% の事例をニュースにすべきなのにだ。

まあ、良い。
「 いじめ 」 は 小学校や中学校にだけあるのではなく、社会に出た後からも存在するもので、その期間がずっと長いという事実があるにせよ。
未成年の内に受ける 「 いじめ 」は、親がその可能性を踏まえた “ 躾(しつけ) ” や 家庭内教育を行なうもので、いざとなれば 保護してもらえる環境だからだ。

  *     *     *     *

最近、大津市での自殺のニュースが、必要以上にマスコミを(が) 賑わせている。

親の義務や責任を一切問わず、全ての責任が学校や行政側にあるかの様な報道内容には失笑させられる。
彼らにも責任の一部はあるにせよ、一部でしかない。
自殺の責任は、保護責任者たる親にある事に変わりない。

仮に、「いじめ」 が “自殺” を避けられないものにした主要因であるとするならば、その責任は いじめを行なった者( それが未成年であれば、その保護責任者たる親 )にあるのは当然の理だ。

訴えを起こした、自殺した方の親御さんの判断は尊重できるものだ。
「いじめ」を行なったとされる 三名の生徒とその両親の責任を追及しているからだ。

ところが、「いじめ」 をしたとされる側の責任を問う局面になると、とたんに マスコミの熱も全国の熱気も急に失せたようだ。

誰も、自分自身に火の粉が降りかかってくる状況は避けたいから、「いじめ」をしたとされる生徒や親の責任に対して、大きな関心も払わないし、口撃さえしたがらないようだ。

学校という、反発できない立場の方々に対して非難を集中する行為こそ、正に 「いじめ行為」 そのものなのに。
マスコミの後ろ盾を得て、ここぞとばかり 「いじめ」 をして、矛先が 自分自身の身に向く話題になると口をつむいでいるだけのように見える。

    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今、安穏として暮らしていられるのも ・ ・

    
全国的に、コンビニに “水” や “電池” の在庫は殆ど無く、製造業の
業態によっては操業短縮があり、東京電力エリアでは “停電” によって
公共交通機関から生活まで影響を受けるなど、多くの影響を受けています。

そんな影響のひとつに、JR西日本では電車の運転本数を削減する事になって、JR西日本エリアでは交通の便が多少不便になっているとの事です。
4/2付け NHKニュースより 震災で部品不足・運転本数削減

しかし、実際に被災を受けた方々を除けば、日本全国の大半の方々は、
3月11日以前とさほど大きな変化も無く日常生活を送っているように見え
ます。

ただ、こうして安穏に生活が出来るのも、現場から逃げなかった “彼ら”
のお陰だと感謝しなくてはならないでしょう。



【 観光や研修生の方々のように ・ ・ 】

3月11日の地震発生の後、福島第一原子力発電所での事故発生の報せ
を聞くとすぐ、全国から観光で来日の外国の方や外国の研修生の方が、
一斉に出身国への帰国を急いだというニュースが幾度となく報道されま
した。

同様に、領事館や大使館の一時閉鎖や関西への移転などを行なった例
もあったようです。

仮に、福島第一原子力発電所の現場から作業していた彼らが全員退避
する事になっていれば、決して国外退避する方々の姿は 「他人事」 では
なかったでしょう。

あの現場に留まり、健康や生命の危険を冒しつつ、沈静化のために毎日
尽力されている “彼ら” が居てくれたお陰で、 こうして(基本的には・・)
安穏とした毎日が過ごせている事を忘れてはいけないでしょう。



【 チェルノブイリやスリーマイル島との違い 】

毎日、電気が使えるありがたさには慣れてしまって、その電気の 1/3
以上を生み出している原子力発電の事は普段は意識していないもの
です。

そして一旦、原子力発電所で大きな事故が発生すると、(今回もそうです
が ・ ・)  大きな騒ぎになって論争が続くのが常です。

では、過去にそんな論争を世界的に生んだ原子力発電所の事故と、
今回の福島第一原子力発電所事故とを比較してみましょう。

過去に発生した世界的に有名な事故は、1979年に発生した [
スリーマイル島原発事故 ]と 1986年の[ チェルノブイリ原発事故 ]です。

今回の福島第一原発と比較すると、原子力発電方式の違いや破損程度、環境被害レベルなど違いはありますが、最も大きな違いは発生原因と言えるでしょう。

先に挙げた2件の事故原因が “人災” が発端になったのに較べ、福島
第一原子力発電所での事故発生原因は “天災” という点が大きく異なり
ます。
もちろん、天災に対しての備えが十分だったか否かの論議は必要です
が、発端が天災であった事に異論は無いでしょう。

また、スリーマイル島原発事故は営業開始して3年目の事故で、チェルノ
ブイリ原発事故の場合は完成後3カ月目の試験運転の最中だったと言わ
れています。

しかし、福島第一原子力発電所は 1976年3月の営業運転開始以来、
ほぼ 40年間に亘り大きな事故も無く稼働し、40年目の節目を迎える直前
に天災を受けたのです。

ともすれば、放射性物質への恐怖から感情的な意見が出がちですが、
客観的事実は冷静正確に把握した論議にしたいものです。
4/3付け 産経ニュースより ・ 過去の原発事故との違いは?
 


【 現場で働いていた方の氏名が発表されました! 】

大変に残念な形ですが、あの現場で働いていた方の氏名が発表されま
した。

3月11日、高レベルの放射性物質による過酷な環境が続いている 4号機
のタービン建屋から、震災直後から行方不明になっていた二人の方が
遺体で見つかったとの事です。

共に20代前半の若い方で、3週間以上に亘り安否を気遣っていらっしゃっ
たご家族の心情は察するに余りあります。
4/3付け 産経ニュースより ・ 不明の20代東電社員2人、遺体で発見



   
【 引き続き、“彼ら”の氏名の公表を望みます 】

事故の直後から、今なお現場に留まり作業を続けている “彼ら” の氏名
の公表を、改めて要請します。

氏名も顔を発表されない “彼ら” ですが、“彼ら” は 私達の恩人なのです。

こうして、毎日、多少の恐れはあるものの、平穏な生活を過ごしていられるのも、二次被害が最小限に抑えようと奮闘されている “彼ら” の作業があるからです。

せめて、氏名と当日作業者数は報道して欲しいものです。

今回の二人のように、残念な形になってから氏名公表されるのでは、
あまりにも寂し過ぎますし薄情ではないでしょうか。


   
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「 東電が ・・・ 」 と 言う前に

   
福島第一原子力発電所の 過酷な現場で働く “彼ら” のお陰によって、徐々に 復旧工事が進んでいる様子だ。
4/1付け 産経ニュース ・ “半歩前進”

施設内の汚染された水、それは 原子炉冷却のために外部から加えられた大量の水が漏れ出たもののようだが、それの除去作業には大きな進展は見られない。

しかし、今も “彼ら” は、現場に留まり続けて作業を続けて事実に変わりはない。


【 ロボット ・・と言っても 】

施設内の被害状況が明らかになるにつれ、人間が作業を躊躇せざるを
得ないほどに高い放射性物質環境が知られるようになり、国内の各研究
機関や諸外国から 「作業用ロボット」 の貸与の声が多く挙がった。

既に 数台のロボットが現地に届いているようだが、実際に稼働して活躍
しているという発表はまだ無い。
4/1付け 産経ニュース・原発災害ロボ、使えぬ日本

この事を指して、東京電力の対応態勢を避難する声もあるようだが、果
たしてそうだろうか?

ロボットと言っても、本来の製作目的はそれぞれに異なり、その操作方法
も異なるのが常識だ。
操作方法がほぼ統一され、多くの人が日常的に操作に慣れている自動
車とは違うのだ。

その上、活躍して欲しい環境までロボットを持ち込めるかどうかさえ分からない。
作業環境が ロボット設計時の想定外という事は充分にあり得るからだ。

“彼ら” が、 人間が行なった方が良い作業だと判断すれば、それが正しい判断だと考えるべきなのだ。



【 「東電が ・・」と 言う前に 】

その明確で落ち着いた口調と似合う作業服姿によって、一気に “株” を上げた枝野官房長官だが、その発言内容の端々には政府の対応姿勢に不信を覚える言葉がある。

それは、何かに対応を求められた際に出る 「 東電が ・・ 」 とか 「 東電
に ・ ・ 」 という言葉だ。

半径 30Km の “結界” を作った事によって数多くの国民に震災加えて
二重の苦しみを与え、 国際的な放射性物質による混乱や騒動の原因の
国となっている現状を正しく認識しているならば、福島第一原子力発電所
事故による放射性物質の漏えいは “ 国難 ” である。

国難 ”であれば、 一民間企業に対して 能力以上の事を求めるような
態度は取らず、政府は 率先して一日も早い解決に向けて、国家の能力
を総動員した体制を築いて事に対処すべきだろう。

民間企業に対して責任を問うのは、問題への対処が一段落してからで
充分ではないか。

安全保障会議 ]を招集せよとは言わない。が、それに準じた態勢で
今回の事故対応に当たる事によって、 ロボット活用の問題も光明が見える
かも知れないし、何よりも 限られた人数だけで 現場作業にあたっている
“彼ら” へのバックアップ体制も整うだろうし、 交代要員を派遣する事も
容易になるだろう。

今、一番大切な事は、日本の未来を守るために、過酷な環境の中で作業
を続けている “彼ら” の労を 充分に称え、 “彼ら” が 安全で万全な
体制で 作業に臨めるように手厚い支援を行なう事だ。


『 より多くの人々が、“彼ら”を 心の中から支援する日が来ますように ! 』


   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国家プロジェクトの “担い手” としての扱いを

 
福島第一原子力発電所は、民間企業・東京電力が所有管理する施設である。

しかし、日本の将来に大きな影響を与え続けているだけでなく、世界各国へ大きな影響を与え続けている大変に大きな “事案”である。

そのため、自衛隊など国家機関からの援助を受けたに留まらず、世界
各国の関連機関からの緊急的援助を受けているなど、世界的な関心事
であり問題となっている。

では、現在の修復作業は、「 東京電力の修復プロジェクト 」でなく、国家
プロジェクト と言うべきだろう。



【 TVで、“彼ら”への関心が高まったが ・ ・ 】


原子力安全・保安院 の 吉田さんの勇気ある告発のお陰で、 原子力
発電所の設備状況への関心だけでなく、 震災で被災した直後から
そこで働き続けている “彼ら” の事へと関心が移った事は大変に良い
事だ。

TV各局を始めとする各種マスコミ機関が 吉田さんの記者会見の様子を
報道したため、政府もその影響を受け止め、3月29日には 枝野官房
長官は 「原発作業員の支援を強化したい」 と発表した。
3/29 NHKニュースより ・ 原発作業員の支援を強化

また、政府の会見発表と歩調を合わすように、翌日の 3月30日になって、
東京電力の勝俣会長以下役員全員が記者会見の場を設けた。
破損した施設の補修作業報道では動きが無かったが、さすがに作業を
している“彼ら” の現場環境の過酷さや凄惨さが TV報道され、 更なる
批判を恐れたと評価されても仕方無いタイミングであった。
3/30 付け 産経ニュースより 東電・勝股会場会見

その会見の中で、記者の質問に答える形で “彼ら”作業員に対しての
配慮を示した箇所があった事は一応評価できるものだ。 陳謝の念と共
に、具体的な配置人数や環境改善策について述べている。
3/30付け 産経ニュース 3/3 p

しかし、この事故処理は 既に東京電力のプロジェクトの範疇は超えて
いる事は明らかなのに、政府は 「 東京電力を通じて ・ ・ ・ 」との発言を
繰り返し、会長は 民間企業の経営責任者としての発言の領域を超えて
はいない。

果たしてこんな対応で、 国家的困難に立ち向かっている “彼ら” を、正
当に評価し支援していく体制になるのだろうか?

ただ、批判に応えているだけの対応であれば、適切な対応は出来ない
事は明白だ。



【 “彼ら”の現状が、より明らかに 】

前述の吉田さんのお陰で、“彼ら”の 状況に関する情報が 以前よりも
多く集まるようになってきたので、ここでお知らせしたい。

最初は、被災&事故以前からの 労働環境から、被災当日の状況、そし
て 施設内で働いている方の人数などについて詳しくまとめてある報道
を紹介する。
そこでは、(
4/4 pで) 現在施設内で復旧作業をしている人の 8割以上
が 東京電力の社員である事が書いてある。
3/30付け 産経ニュースより 原発作業員・それぞれの使命感

また、“彼ら”の一部の方は 放射線の被ばく量が測れなくなっている事が判明している事まで明らかになってきた。
地震被災の際、多くの台数の計測器 ・ 線量計 が壊れていたのだが、
“結界” の中の事は 全てが閉じ込められてきたのだろう。

作動環境が公表され、政府も対応を検討を始めたが、これも 前述 ・
吉田さんの功績と言ってよいだろう。
3/31付け NHKニュース ・ 一部作業員の被ばく量量れず

しかし、この報道の中の政府の対応に注目してほしい。

「 東京電力の安全管理の在り方を調べる ・ ・ ・ 」 となっているが、国家
プロジェクトに対応している 貴重な “彼ら” の存在を正しく認識している
ならば、「 東京電力が ・ ・ ・ 」 とか 「 東京電力の ・ ・ ・ 」 などの声明を
出せる段階でない事は明らかなのだが ・ ・ ・ ?


   
【 “彼ら” へ 支援・声援を!! 】

報道されたとしても、“彼ら”の 作業している環境の過酷さは変わらず、
その国家的な責任の重さも変わらず、 家や避難所で待つ ご家族の
方々の心配や心労は増えるばかりだ。

さあ、以前も紹介したが、 海外では “彼ら” に対しての支援の声が以前
から大きく挙がっていた。
米国の小学2年生 22名 が、“彼ら”を 「私のヒーロー」と呼び、直接 激励
メッセージを送付したニュースを再度紹介する。
3/28付け 産経ニュースより 福島第一原発作業員に「私のヒーロー」

同じ日本国内に住む 私達には、米国の小学2年生よりも 多くの事が出
来るし、 やっていかなくてはならない! と 共感する人は少なくない筈。

さあ、記事をツィートしたり、 ブログへリンク貼りしたり、 メールへリンク
したり、直接 東京電力へ手紙を届けて配送を依頼したりしませんか。

“彼ら”と 一つになって、日本の未来を守る 活動に“力” を !!
 
    

| | コメント (0) | トラックバック (0)