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東京オリンピック報道に、疑問を持とう

 
2020年、“ 東京オリンピック ”の開催が IOC委員会での投票で決定しました。

しかし、“東京”特有の偏った報道熱の中で、オリンピック開催に多額の税金や人的なリソースを費やす事への検証がなされず、ただただ“フィーバー感”のみが演出されている事に疑問を禁じえません。



【 オリンピック開催の意義 】

東京では 2回目のオリンピック開催になりますが、前回の開催による効果は大変に大きかった事は間違いありません。

といのも、第1回東京オリンピックが開催されたのは 1964年の事で、あの太平洋戦争(第二次世界大戦)終結から僅か 19年後に、日本の状況を広く世界に認知させるのに大いに役立ったのです。


日本と同じく敗戦国であったドイツ(当時は西ドイツ)も目覚ましい経済復興を進めていた最中でしたが、欧米から見れば遠く離れた日本が着実に復興を進め、身近なドイツより 8年も早くオリンピック開催を実現した事によって日本に対する認知度が高まり、その後の日本経済が世界的に伸びていく土台となった事は間違いありません。

また、国内的には、関東4県での競技施設の建設以外に、交通インフラが一気に国定的な水準へと高める大きな動機となりました。
例えば、東海道新幹線の建設、名神高速道路、首都高速道路の東京国際空港(羽田)と東京を結ぶ東京モノレールの建設、等もこのオリンピック開催に合わせての事業であったことは有名です。

更には、それらの建設の恩恵に浴さない、全国各地の国民にとっての効果も忘れてはいけません。
それは、戦後20年足らず、懸命に日々の生活のために働いてきた人々が、初めて国際的な大会で世界の参加選手を目にし、世界に様々な名前と国旗の国がある事を知り、日本選手の活躍に同国民である誇りを強く覚え、国際的な意識の高揚にも繋がったものです。

そして、オリンピック開催に合わせて始められたカラーTV放送やカラー刷り新聞紙面は、それらの効果を一層高めたものです。
この様に、オリンピック開催は国際的なアピールやインフラ刷新、そして国民意識の高揚に大きく効果をあげたものです。

しかし、2020年開催のオリンピックについては、各報道機関がプラス面の報道だけに留め、“マイナス(負)”の部分を正しく伝えていない事が問題なのです。

   
【 報道姿勢の偏り 】

1964年開催の第一回東京オリンピック以降、日本国内でオリンピック開催の申請を行なった例を挙げると、1988年の開催を目指した名古屋市、そして 2008年の開催を目指した大阪市、がありました。

そして、それらのオリンピック開催の申請に対しての報道と今回の“東京”オリンピック開催申請への報道を較べれば、今回の東京オリンピック報道に対しては圧倒的に多くの放送時間枠を使い、特別番組作成など比較にならない程に多額の予算と人的な投入を行なっており、その事に対して大変に大きな違和感があるのです。

というのも、オリンピック開催は国が主体になって行なう国の行事ではなく、地方自治体がその開催を企画・検討して、それを国が支援して実現するものなのです。

それなのに、“東京”が “日本” であるかの様に表現し、地方自治体が開催する「限られた人だけしか出場できないスポーツ大会」を国の行事であるかの様に報道する事は誤った姿勢なのです。

その上、過去に名古屋市や大阪市など地方自治体が国際組織・IOCに対して費やした努力があったからこそ、今回の“東京”オリンピックの開催実現へと繋がっている側面は間違いなくあるのですが、それを全く無視して“東京”という自治体が開催イベントだけを大きく報道する姿勢は、全国ネットでの報道機関にはあってはならない事なのです。

しかしながら、“東京”に関する報道の偏りは、オリンピック報道だけに限った事ではない事も忘れてはいけません。

それは、一般的なニュース報道や報道番組、そして教育番組の中でさえも、“東京”というローカル地域のみで通用する「常識」であるにも関わらず、それを全国放送の場で引用している場面はかなり以前から日常茶飯事となっています。
(例えば、「東京ドーム何個分」、「山手線の大きさ」、「東京都の面積に相当」、「東京スカイツリー開業」など・・)

そのような、“東京”の常識や尺度を“日本”の基本であるかの様に扱う姿勢こそが、全国各地での違和感を生み、根深い不信感を生んでいる要因になっている事を自覚して、各報道機関は“公平性”というモラル意識を徹底すべきなのです。

また、それらの報道を受ける立場の私達は、“東京”報道による“偏り”を認識して、その“偏り”を自ら修正して、より正しい判断や意見を得る心掛けが必要なのです。

では、同じ招致活動を行なった他の都市や国での出来事を紹介します。

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【 マドリードでのデモ行進 】

同じ2020年の開催に立候補していた“ライバル”都市の状況を報道する番組の中で、スペインの都市・マドリードでのオリンピック開催反対活動が挙げられていました。

欧州経済危機の中で、その影響を強く受けている国の一つがスペインですから、「市民生活の立て直しに予算を使うべきだ」という趣旨で、街頭に多くの人々がプラカードを掲げて強くアピールしているのです。

また、オリンピックではありませんが、2014年にサッカーのワールドカップ開催が決まっているブラジルで 20万人もの人々が開催反対のデモ行進を行なったとの報道があったのは最近の事です。

大変に多額の税金を生活には直接に関係しない方面に費やすのですから、そういう反対意見があるのは当然ですし、反対運動があるのは社会的に健全なのです。

1964年当時の日本と似た立場にある国でさえ、国際的な認知度を高めて社会的なインフラを整備し、経済的波及効果が高いと思われる大会開催に対して、“負”の側面を正しく認識して意見を主張する国民意識があり、正に“大人”の行動だと言えます。

しかしながら、私達日本国民は、開催による “負”の側面について充分に認識し、多額の税金や行政能力が費やされる事について十分に議論しているとは言えないのです。



【 国民・個人にとっての価値 】

1964年のオリンピックと比較すれば、2020年開催のオリンピック開催による波及効果は小さく限定的である事は明らかです。
以前と大きく異なのは、放映権料など報道で動く金額が膨大になり、広告業界やスポーツグッズ関連業界会が投資と回収を企てる金額も天文学的な数値にまでなっている点です。

それらの金額と対称的なのは設備に投資される金額でしょう。
今や、国家的大事業とは云え、既存の施設を効率良く利用し、開催施設範囲を狭くまとめ、よりエコな開催である事をアピールするのが国際的な潮流であり、1964年に建設された首都高速の旧態依然とした設備さえ更新されず、国際的にみれば小さ過ぎる東海道新幹線のシートさえ更新される事はないでしょう。

こうして見れば、2020年の東京オリンピック開催による波及効果は大きくない事は明白です。

しかも、以前とは比較にならない程に充実した世界的な報道環境の充実により、今やオリンピックがどの都市で開催されていても、その映像や音響は日本国内で開催される大会と同等の品質であり、そのライブ放送は臨場感溢れ充分い楽しめる様になっています。

その上、以前より遥かに豊富になった報道チャンネルの他に、TV以上に身近な情報源となったネット・モバイル環境が充実している現在において、観る側にとっては“東京”である必要はありません。
直接に会場へ赴いて楽しむ事ができる人を除き、大多数の国民にとって、オリンピック開催地が何処であっても充分に観て熱中できる環境が整っているのです。

その上、昼間にライブ映像を観れない不便な面もあります。
平日の日中勤務の殆どの人にとって、遠隔地開催のオリンピックは帰宅後にライブ放送を楽しめますが、東京オリンピックはライブ映像を観る機会が限られるのです。

この様に、国際的なアピール面や社会インフラ投資の面、そして報道による自国民への影響などを考慮しても、1964年当時のオリンピック開催とは比較にならない程にその効果は少なく、却って“負”の側面が大きい事を認識すべきです。

オリンピック開催による経済効果だけに焦点を絞った報道に惑わされず、国が東京開催の為に割いている支援体制や支援額の大きさを認識し、それらが日本全国民に与える“負”の側面を見つめ直し、より必要度の高い課題に対して税金等を費やすべきと考える必要があるのです。

偏った報道によって経済効果アピールが過剰に過ぎれば、消費税増税実施の「言い訳」の一つと、東北地方太平洋沖地震による被災復興事業の遅れを隠し、外交姿勢の不備や憲法改正問題の重大さから目をそらす事へと繋がってはいけないのです。

あくまでも、“東京”オリンピックは 特定の地方自治体が最大の経済的なメリットを享受し、大半の地方自治体や国民はそれを受けず、“負”の側面だけは国民全員が同様に負わなくてはならないのです。

   

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