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2020年6月22日 (月)

3月、福島への旅   Trip to Fukushima in March

 
           2月、中国・武漢での新型コロナウイルスによって多くの人々の自由が奪われ、
   適切な診療さえ受けられないでいる現状を Webサイトを始めとするメディアで
   目の当たりにし、日本政府の対応のあまりにもの遅さにやきもきさせられる中、
   3月、韓国やイタリア、イランでも更に深刻な感染が広がり、渡航制限も各国で
   始まった頃、福島へ行ってきました

       

 

『 なぜ 福島へ? 』  Why to Fukushima

2011年3月、震災による東京電力福島第一原子力発電所で炉心融解の事故発生で、福島の地は世界的な風評被害を受け、特に帰宅困難地域に指定された人々の苦難は想像が及ばないだろうと、TVは震災や事故、住民だった人々の現状を連日の様に僕の目の前に投げかけたのです。
 
 「 支援金を寄付する以外、何か出来る事をしたい」
 「 原子力発電所の事故は日本の責任だから、日本人の僕も何らか果たすべき責任はある」
 
そんな想いは時が経ってもずっと抱えていて、移住を検討している今だからこそ、その有力な候補の一つに浮上していたのです。残りの人生をその地で暮らして、僕自身の存在が周りの人達に何らかの良い影響を与えられ、それを僕自身は成長の糧として生きていく移住先として日本国内では外せない地域だ。
  
実は、以前から伝えている様に、移住先として検討している所は幾つかあって、海外ではノルウェーとニュージーランドが最有力候補地だ。しかし、ツァーでの現地確認の予定を組む間も与えず、新型コロナウイルスは各国の渡航制限を促してしまったので、先ずは国内、福島行きとなった。

  

  

 
 

『 まずは 浪江町へ 』  First to Namie Town

出発の前日、現地の宿泊候補地をリストアップして駅からのアクセスや距離も確認した、が、出発の朝、リストアップした殆どの宿泊施設の電話は通じない。唯一、駅からさほど遠くない場所にある町が運営母体の入浴施設には電話が通じて予約を入れる。
   
乗り慣れた東海道新幹線、平日午前中とは云え、自由席でも席は充分に選べる程に空いている。これも ウイルス禍の影響だろう。東京駅から常磐線の特急へと乗り換える。いつも感じている事だけど、世界に誇る新幹線の無骨な車内デザインは人間味に欠けているが、JR常磐線の特急・日立の車内デザインはシンプルな配置ながら実に丁寧な造形配置で清潔感も高い。プラスチック然の凸凹パネルで内装を仕上げた車両とは雲泥の違いだ。
    
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各駅停車の列車に乗り換える いわき駅で、待ち時間潰しを兼ねて駅構内から市内へと出てみた。「 ここも福島か 」 震災と原子力発電所の事故で大きな被害を受けたのは 現地通称「浜通り」と呼ばれる太平洋岸地域だ。福島市や郡山市のある県中央部・「中通り」や更に西部の「会津」では震災の影響も大きくなかった事は知っていたけど、いわき市は「浜通り」、よく見掛ける地方都市然としていて建物も綺麗で、多くの小奇麗な服装をまとった人々で賑わっていて、身構えていた心も少し緩んでしまった。

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しかし、浪江駅に到着した後、何事も現地に行ってみなければ分からないと実感させられた。
    
   
   

『 JR浪江駅 到着 』  Arrived at JR Namie Station

夕方 6時過ぎ、JR 浪江駅に到着。
地方過疎地出身の僕は、1時間に1本も通らない JRローカル線の風景は身近だったし慣れているが、浪江駅の雰囲気はそれとは全く違っていた。まるで 人の気配がしない。いわき市と大違いだ。

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人の気配は全く無いどころか 車の気配さえ殆どない町を、事前にリストアップしておいた食事処を目指して歩き始める。駅舎以外に見える建物に照明が灯っていない上に街灯さえ僅かしか無い。
途中、4階建てのビジネスホテルらしき建物に明かりが灯り人も出入りしていたが、大手ゼネコンの貸切か買い切り状態、作業服姿と仕事用の車両ばかり目立つ。
   
道に迷いながら約20分、国道沿いに建つ食堂に入る。聞けば 2年前に帰還困難区域を解除されてから最初に開店したお店の一つの様で、中はゼネコン関係の方なのか、若く綺麗なビジネススーツ姿の人々や作業服姿の客姿が目立ち、そこまで歩いて見てきた町の重苦しさとは別世界だった。若い店主には 幼い三人のお子さんがある様子で、これからの浪江町を支えていく一人だろうと確信した。
   
そんな店主にお礼を言って外に出て、予約した宿泊施設まで約30分間、暗く人の気配が無い町を歩く事に。歩くのは嫌いではない。人と町の様子を観に来たのだから、歩きながら町を感じる事は大切な事だし、新月の時期を選んだので 夜空の星も綺麗に見える筈だからだ。
   
   
  
  
『 失望の宿泊施設 』  Disappointment with accommodation
   
道中、綺麗な夜空を観たくて、わざと街灯が少ない道を選んだから、夜空は綺麗に観られたけど、町外れ、周囲は完全に真っ暗闇。半分、道に迷いつつ、暗闇の道の周囲で僕の気配に驚くイノシシやタヌキらしき者達が移動している足音に怯えつつ、[ 帰還困難区域 ]の標識が今も表示されている道路を横目で見ながら宿泊施設に到着した。
  
出迎えてくれたフロントの方、震災時には別の会社に勤務していたけど、自宅に戻る事もなく家族の人達と避難指示に従って避難先を転々として、ようやく今の職に就いている事、富岡町にある東京電力の資料館は一見の価値がある事など色々と教えてくれた。
大型の入浴施設に宿泊施設を備え、浪江町の元住民の方々が浪江町へ戻ってきやすくする為の設備だとも聞いたが、施設の内容とフロントサービスには、正直、軽い失望をした。
  
新しい施設なのに、バンガロー的な造りの宿泊施設、トイレの扉が壊れていて完全には閉まらず、中からロックもできない。だから、便座に座っている間は片手でドアハンドルを引張り続ける体制が求められる興味深い初めてのトイレだ。その上、歯ブラシや浴衣などアメニティが無い。キッチンの戸袋から冷蔵庫の中、クローゼットまで散々探したけど無い。まあ良しとして寝て、翌朝には部屋に閉じ込められてしまった。オートロックされる扉には 二重のロックがあって、外に出る際には その二つを手動で解除しなくてはいけない事を探り当てるまで 約 5分間。何の事前説明も「利用案内書」も無い中でもがき続けた。ただ、それ以上に失望させられたのはフロント担当者の対応だ。
   
声を荒げて文句を言う趣味は無く礼儀をわきまえつつ、「 クレームです 」「 対応できる担当者の方と話をしたいのですが 」と確認した後、宿泊で受けた不都合な事を一つひとつ説明を重ねたが担当者の受け答えには「 ご迷惑をお掛けしました 」のひと言も無く、その事を問い質せば 録音をすると言ってスマートフォンを取り出すしまつ。
埒が明かないので、暫くして出社された昨夜の フロント対応の方に話してみれば、対応マニュアルの一文をそのまま引用して 「 今回、ご指摘をいただいた件は真摯に受け留めて改善に努めます 」的な言葉だけで、「 ご迷惑をお掛けしました 」のひと言や、「 申し訳ありませんでした、確認して参ります 」の言葉もない。こちらは、意見や指摘をしたのではなく、迷惑を受けたし、アメニティについては料金相応のサービスを受けられない損害を受けた事を優しく伝えているのにだ。全く、フロント対応の教育や常識は欠けていたものでした。
   
後ほど、浪江町役場で受けた対応と併せて考えれば、決して 浪江町の人々の気質や“ゆとり教育”の悪影響だとは思えず、施設での担当者に対する教育の欠如だと思えたけど、良い体験とは言えないものでした。

    
 
 
 

『 浪江町を歩いて知る 』  Walking in Namie
   
朝、宿泊施設を出た後はひたすら街歩き。
自動車学校だった施設を訪ねれば、コースの跡も無く、全面が太陽光パネルの発電施設に変わり、大きな道路を歩けば、夜間とは打って変わって、大型ダンプやトラックが次から次へと行き交い、一見活気には溢れていた。しかし、車両のナンバーを見れば、北海道や青森、秋田、岩手そして関東地域のナンバーも多く、その多くが白ナンバー車で、タイヤも多くが新品に交換して間もない様な状態。帰還困難区域を解除され、国から税金が投入された数年単位での復興事業の効果は本格的だ。街並みの中で目立つのは解体予定家屋だ。外観から震災で被害を受けた形跡は殆ど無く、中には建築後10年程度と思える家屋まで解体予定になっている。それが不思議に思った点だ。
    
神戸の街も震災後半年も経たない内に工事用の大型ダンプが街中を数多く走り回り、市内の各所で多くの家屋やビルの解体工事も同時に行なわれたから見慣れた光景だった。しかし、問題無く住め総な多くの家屋が家屋に解体予定の札が貼ってある光景には驚かされた。っていたから、浪江町のトラックの多さは見慣れていた光景だし、多くの家屋やビルの解体工事も町の至る所で行なわれて見慣れていた。しかし、解体されるのは震災で被害を受けた建物ばかりだった。実にもったいない話で不思議な光景だった。
   
随分と歩き回った後で、浪江町役場へ行った。「移住を考えているのですが」と対応セクションの紹介を受けて移住に関しての説明を受ける為だ。ただ、アポなしで訪問だったとはいえ、浪江町役場では 移住希望者に対応する正式なセクションは無く、希望者へ配布できる資料も無い事が分かった。それでも、2度目の照会で対応して下さった 企画調整係の志賀さんは誠心誠意の対応には深く感謝している。実に細やかな対応で宿泊施設でのネガティブな印象は大きくリカバーもされた。
ただ、志賀さんの説明によれば、震災以前の住民の方々の多くは町に戻っておらず、そんな人々を町へ呼び戻す事業が優先されている様子だった。
    
役場を出た後、住宅事情を確認したくて、町に 1軒だけ営業している不動産会社で説明を受け、充分に住める家屋の多くが解体される理由も分かった。多くはお金の事情が絡んでいる様だ。震災後数年に亘って住んできた地域は生活や教育環境が整っている上に風評被害も少ないが、住民票を浪江町に残しておけば支援金など援助が受けられるし、戻って住む事は考えていない家屋の解体は特別な補助金で格安に行なえるから節税対策になるという判断が働いた結果の様だった。
従って、不動産業者での説明も今後数年はゼネコン工事関係者用の需要が続き、賃貸物件は高止まり料金でいて空きは無く、新築アパートも企画段階で直ぐに契約済みになっているとの事だった。
つまり、僕みたいな存在や需要は彼らの眼中には無く、適した物件も当分の間無いと理解した。
そこで、次の候補地・富岡町へと足を伸ばす事に決めた。

 
 
 
 
『 富岡町へと足を伸ばして 』  Walking in Tomioka

JR常磐線に乗って富岡町の駅に降り立ってみれば、そこは浪江町とは異なる風景が広がっていた。
駅前には新築の住居が数多く建てられていて、その殆どが平屋か2階建ての賃貸物件だった。それを見て、何も知らない僕は「富岡町だったら住める所があるかも知れない」と思い少し喜んだが、後になって間違いだったと気付かされる事になる。
   
そんな新築ばかりの住宅群を横目にしながら、東京電力が震災事故資料を展示している廃炉資料館へと向かって歩いた。駅から約 20分ほどの道程だけど、ここでも殆ど人気(ひとけ)が感じられない不思議さに違和感は感じていた。
   
そんな不思議な新しい街並みの中を歩き、ようやく資料館に到着してみれば ・・・
2月下旬から新型コロナウイルス禍の影響を考慮して休館になっていたのです。(素早い!)

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期待していただけに気落ちした。
でも、がっかりばかりしていられない。予定はしていなかったけど、富岡町の役場へ行く事にした。ここから歩いて 20分程、駅から更に遠くなるけど、街並みを見るだけでは分からない事もあるに違いない。
  
当然、アポ無しの訪問だったにも関わらず、移住専門のセクションは無かったにも関わらず、対応して下さった 植杉さんの懇切丁寧な説明で色々な事が理解できる様になった。
富岡町でも浪江町と同様に、元々の住民だった約1万6千人の方々の殆どは町外に住んでおられて、ただ給付金の関係から住民票上では富岡町民との事。当然、役場ではそういう方々の為の業務を行ないつつ、一人でも多くの方が町に戻ってこられる施策を進めていらっしゃる様だ。

  
そんな植杉さんの指摘で気付かされた僕の無知・不覚は新築賃貸住宅街の事だ。
  
 「駅前地区は津波で家が無くなったのですよ」
  
そうだった! そう言われれば、TVの報道でも観た事がある風景だった筈だ。それで新築ばかりだったのだ。でも、あれだけ多くあれば、一軒ぐらいは空きがあるのでは? と尋ねてみた。
  
 「工事関係の方々の需要で空き物件は無く、企画段階で満杯になっていますよ」
   
2011年の震災以降、東京電力原子力発電所の事故の関係で長年に亘り帰還困難区域に指定され、最近になって徐々に規制が解除されたとは言っても、住居は流されて簡単に戻れる筈も無く、復興工事が当分の間続いて工事関係者の人の住居需要に応えて、賃貸物件オーナーになった方が色々な面でメリットが大きいと考えて当然だ。
そういう訳で、浪江町より賃貸物件が多く見える富岡町でも空きの賃貸物件は無く、貸し手市場なので家賃も高止まり状態だから、奇跡的に古民家などの物件に縁があったとしても安くない事は覚悟すべき地域であり時代だと理解できた。





『 考察 』  Consideration
   
東北沖地震とそれに伴う原子力発電所事故の関係で、特に福島県の浜通りの避難を長年強制された地域には、原子力発電所の廃炉が完全に完了するまでの数十年間、色々な意味で社会的な“歪”に晒され続けると考えて、僕がその地域へ移住する事によって、その地域に住む人々の為に何かしらの良い影響を少しでも残せられれば、と心に想い続けての旅でしたが、現地に行ってみなければ分からない事ばかりの発見の旅でした。
   
移住する際に一番大切に考える事は、その地域に住む人々とどんな関係を築けるかという事です。
お互いに何かしらの良い刺激を与え合える様な関係を築く事が新たな刺激となり、僕自身の成長に繋がる事を切望するから移住を考えているのですが、その肝心な現地に住む人が実際には居ないという事であれば達成は少し困難になります。
   
志賀さんや植杉さんのお蔭で、移住検討の為の現地までの交通費などは特別な補助制度で公的に支援が受けられ、住居購入の際にも特別な補助が受けられる事も分かったものの、お金勘定の為に移住は考えていないので、それらの補助にもさほどの魅力は感じられない。
決して、福島の浜通り地区への移住は断念していないし、当初からの想いも変わらないけど、僕自身を活かす為の企画は改めて考え直す必要は強く感じている。やはり、行ってみないと分からない事は沢山あるから、行ってみて良かったと断定できる。
次は ニュージーランド検討。一日も早く渡航制限が解除される日を待っている。

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神戸までの帰路、東京駅で新幹線に乗り継いで驚いた。
平日、新大阪駅までの終電間際の列車だと言っても、仕事で何度も乗った列車でこんなに空いている光景は観た事は無い。
   
この時期、国と都の行政トップは 「オリンピックは完全な形で開催します」と公言し続けていたが、ダイヤモンド プリンセスでの感染拡大を抑えられず、国内各地で感染者や死亡者の報告がされる様になって一月ほど、多くの人々や企業は既に遠出や出張などを大幅に控えている事が一目瞭然だった。 4月以降、日本が巻き込まれる自粛規制とそれによって多くの人々が生活に支障を受ける事態がやって来るとは、この時、そこまでは想像できなかった。
   
1月の段階で、日本で感染拡大が発生した場合の感染者数の想定を行なっていなかった事が最大の元凶で、想定していなかったので医療用資機材の不足も想定出来ず、病床確保の想定や PCR検査体制の確保まで事前に手配を行なわず、コトが起きてから“泥縄”で後になってから考えるから全てに手遅れ状態が続き、多くの国民が健康や経済的な損害を被り続ける構図。正に 東北沖地震と原子力発電所事故により甚大な被害を国民に与えた構図と変わりありません。
  
事前に想定せず、事前に段階別の指示や規制も準備せず、国会審議の場を含めてそれに誰も責任を取らないという構図、いつになったら、どうやったら修正されるのでしょうか。
 
 

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