自殺について考えること
「 自殺 」について、今日は思っている事を書いてみたい。
誤解を恐れずに言うならば、僕は “自殺容認主義者” だ。
より正確に表現すれば、「自殺は誰もが選択する事が出来る生き方の一つ」だと思う。
“生き方” と表現したのは、自分自身の意思では何も表現できず、接続された機器の働きによって、ただ病床で生き永らえさせる“ 生き方 ”はしたくないからだ。
脳死として判断される状態なら、直ぐに延命処置を中止して、移植可能な臓器をより健康な内に利用してもらう方を、自分自身の“生き方” として選ぶ。
仮に、そこに至る前の段階であっても、医療技術による延命処置を選択する段階には、それを選択するか否かは自分自身の権利として確保しておきたい。
そして、自分自身を自分自身の意思で制御できず、意思表現の自由さえ無くす前の段階には、“自殺をする権利” を自由意思として確保すべきだと考えている。
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しかし、守らねばならない事がある。
他の人の “生き方” に影響を与える事を最小限に留めなくてはならない。
当然だが、他の人を巻き添えにして自殺してはならないし、全く無関係な他人に亡骸の後始末をさせてもならない。
だから、列車への飛び込みはダメだし、高い所からの飛び降りもダメ。
まして、レンタカーを使っての練炭自殺もダメである。
例え、“自殺” であっても、最後まで “ 人 ” として他の人に迷惑を不要に掛けてはならないからだ。
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話は変わるが ・ ・ ・
中学生が自殺をしたニュースは 社会的な反響を買いやすいようだ。
日本人の年間自殺者数の 1 % にも満たない事例なのにだ。
本来は、他の 99% の事例をニュースにすべきなのにだ。
まあ、良い。
「 いじめ 」 は 小学校や中学校にだけあるのではなく、社会に出た後からも存在するもので、その期間がずっと長いという事実があるにせよ。
未成年の内に受ける 「 いじめ 」は、親がその可能性を踏まえた “ 躾(しつけ) ” や 家庭内教育を行なうもので、いざとなれば 保護してもらえる環境だからだ。
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最近、大津市での自殺のニュースが、必要以上にマスコミを(が) 賑わせている。
親の義務や責任を一切問わず、全ての責任が学校や行政側にあるかの様な報道内容には失笑させられる。
彼らにも責任の一部はあるにせよ、一部でしかない。
自殺の責任は、保護責任者たる親にある事に変わりない。
仮に、「いじめ」 が “自殺” を避けられないものにした主要因であるとするならば、その責任は いじめを行なった者( それが未成年であれば、その保護責任者たる親 )にあるのは当然の理だ。
訴えを起こした、自殺した方の親御さんの判断は尊重できるものだ。
「いじめ」を行なったとされる 三名の生徒とその両親の責任を追及しているからだ。
ところが、「いじめ」 をしたとされる側の責任を問う局面になると、とたんに マスコミの熱も全国の熱気も急に失せたようだ。
誰も、自分自身に火の粉が降りかかってくる状況は避けたいから、「いじめ」をしたとされる生徒や親の責任に対して、大きな関心も払わないし、口撃さえしたがらないようだ。
学校という、反発できない立場の方々に対して非難を集中する行為こそ、正に 「いじめ行為」 そのものなのに。
マスコミの後ろ盾を得て、ここぞとばかり 「いじめ」 をして、矛先が 自分自身の身に向く話題になると口をつむいでいるだけのように見える。
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